いのまんの日記。 写真・イラストなどを記載。 管理人: いのまん |
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■ 2009/05/10(日) 母の日 今日は 母の日だ。 仏壇に カーネーションを 捧げた。
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毎朝 6:00に起きる。
朝食は いつも卵焼きだ。
それも 卵のカラが入った卵焼き。
それを 仕方なく食って 会社に行く。
家は 一年前と比べ ガラリと変わった。
変わったというのは もちろんイイ意味ではなくて
なんか 変なんだ。
食器は いちいち片付けていられず
いつも食器かごに 入れられっぱなし。
そのまま置いといて 自然乾燥させるんですってよ。
最近は 僕も親父も 笑っていない。
上手くいかないことばかりで 非常にストレス三昧だ。
飯は親父が作っている。
親父の方が 先に帰ってくるから。
テーブルに並ぶのは、毎度の如く
野菜炒め 味噌汁 漬物だ。
たまに漬物には カビが生えている。
作っているのは親父なので 文句は言えない。
冷蔵庫の納豆も賞味期限が切れている。
そして 掃除していないので くさい。
本か何かで読んだ気がする。
まさか 自分がこうなるとは 夢にも思っていなかった。
そんなのは 誰もがそうだ。
だって 母親がいる、存在しているのは 当たり前のことだから。
母親の存在価値というのは 死んで初めて分かる。
母親がいなくならない限り 絶対に分からない。
いつもの幸せ っていうのは、無くならないと気付かない。
「人は 歳をとって死ぬもんだ」 って、
「介護がめんどくさいだろうな」 って、思っているに違いない。
僕は介護とか 経験しなくても よくなったんだ。
だって 死人は介護できないから。
親孝行をしたくても もうできない。
あの日以来、僕はあと何十年も
このことを背負いながら 生きなければならなくなった。
僕には もう母親が いない。
だけど、もう買う必要ない。
その車で 箱根とかに連れてってあげる予定だったから。
命日の月に ちょうど箱根に旅行に行く 計画をしていると
親戚のオバサンから 聞いた。
昨日も今日も 思いださなかった日はない。
死ぬ 3日前の記憶・・・
・
2時間くらいかかって 病院に着いた。
病室に入ると そこには 母じゃない母がいた。
手を握ると 握り返してきた。
そして、しきりに何かを言っていた。
でも、その声は 言葉になっていなかった。
なんとか 聞きとることができた言葉は
「こおり」
氷が欲しい 氷が欲しいと 何度も訴えていた。
しかし、医師の指示で 飲食は禁止になっている…。
腎臓は 両方の機能が 99%停止しているらしく、
血尿すら出なくなっていた…。
サイレントヒルの世界にでも 来たような感じだった…。
でも、僕が見ていたのは 現実…なんだろうな。
尿パックには 血の跡以外 なにも無い。
相変わらず、何かを もごもご言っている…。
目の焦点は 定まっていない。
見えているかどうかも 分らない。
そちらに 手を伸ばしていた。
そして また もごもごと何かを言う。
聞き返したら 口を閉ざしてしまった。
息の間隔が 10秒くらい。
体には 黄疸の症状がでていて
目はドロドロで 真っ黄色だった。
足は パンパンに むくんでいる。
ものすごい量の 痰もでていた。
見ているこっちも 吐き気がするくらい。
空は明るくなり始めていた。
もう昨日のような反応はない。
どうやら母は 息をするだけの母 になったようだ…。
上が68 だけど 下は低すぎて測れない と言っていた。
「青山孝が肝臓ガンで亡くなった」 と報道していた。
68から 56に下がっていた。
死へのカウントダウンの数字みたいで すごくいやだ。
疑問を抱きたくなってきた。
目は半開きになったまま・・・。
血圧は 45まで 下がっている。
体や ベットの周りを 拭き始めた。
「そろそろなのか」 と、薄々悟った。
2日間 ろくに寝てない。
呼吸が止まったそうで。
すぐに病院に向かった。
現実に 目の前に広がっていた。
看護婦さんの手によって 点滴のスイッチが切られ、
みんなが号泣していた。
母の胸(心臓の部分)に 手をあててみた。
すると、「死亡」 と告げられた 母の胸からは
ドクンドクンと 心音が伝わってきた。
その時 親戚のオバサンは
「そんなことしても 生き返らない」 と言っていた気がする。
僕の中で ちょっと変わった 瞬間だった・・・。
・ ・ ・ 母親 は 子を守り 父親 は 家を守り 子供 は いずれ親孝行すべし・・・
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